コンサルとして独立を決意
自己紹介もくじ
東京は仕事で数回来たくらいでよく分からず、「どこに住もうか」という目で見たときに、田舎もんの私にはとても住む場所とは思えませんでした。
屋根伝いにどこまでも行けそうな、ゴミゴミした街並み。
家の販売チラシで「広々30坪!」というキャッチコピーを見て、(30坪で広々???)と、田舎もんの私には意味が分からない。
ビルとビルの谷間にある狭い公園で遊ぶ子供を見て可哀そうで、「こんなところで子供を育てたくない」と。
何しろ当時、娘が通っていた大分の幼稚園が山の上にある4,000坪~6,000坪くらいありそうな幼稚園で、動物園かっ!というくらいに動物も飼っていて、グラウンドも広大で、毎日泥んこになって疲れ切って帰って来てたんです。
出店していたのも千葉と北関東だったので、千葉に住もうと思いました。
でも、船橋とか柏とか見ても「東京と変わんねーじゃん」
かといってあまり遠くても不便なので、「東京に近い田舎はどこか?」と探して決めたのが、いま住んでいる千葉県白井市です。
こっちに来るにあたって親会社からの出向という形だと腰掛け的に思われるし、本気度を見せるために転籍しました。
親会社は退職です。
もともと辞意を言いましたしね。
再び現場に出て「よしっ!」という気持ちだったのですが、どうしてもスパイ的に見られるというか、関係がギクシャクしてしまいます。
また、それまでずっと類まれな創業経営者を見てきたこともあり、それと比べるのも悪いですが金銭よりも浪花節がモチベーションになる私は、モチベーションも下がってきて…。
もうすぐ40代になるというのも大きかったです。
独立するならこのタイミングだなと。
2人目の子供ができるのも大きかった。
1人目の時は「ホテルが定宿でたまに家に出張する」ような生活だったので(結局、今でもそうですが)、家に帰って抱っこしても人見知りされてワンワン泣かれるんです。
休みもほとんどない生活だったので、幼稚園の行事にもあまり参加できず。
千葉に来てもどこにも連れて行ってやれず。
小学校に上がるタイミングでしたし。
また、400~500時間/月&363日労働をやって、「またあれを繰り返すのもなぁ…」と。
いろんなことが重なってやっぱりこのタイミングだと思い、コンサルとしての独立を決意しました。
親会社は退職して転籍していたので、今度はスムーズに。
この時38歳。
2人目の子供が生まれる前月に退職したので、「2人目の子供の年齢=独立年数」で分かりやすいんです。
上場を経験したおかげで数年間は生活できるくらいのお金はあったので生活の心配はなく、しばらくは自分の弱点を補うことにしました。
パソコン教室、簿記の学校、そしてこれまで体験したコンサルを反面教師として、過去の経験の切り売りにならないよう、体系的な経営の知識を学ぶべく中小企業診断士の学校にも入り、3つ同時に始めました。
38歳にしてパソコンを覚え、簿記は3~4ヶ月で2級まで取りました。
今でこそ偉そうに数字の本を出したり数字のセミナーをしたり、もちろん数字でコンサルしますが、簿記を覚えたのもこの頃なんです。
さすがに中小企業診断士はここまで難しい資格だとは知らなかったので(当時の合格率が確か2%程度)、2年かかりました。
それでも早いと言われたりもしますが。
40歳の時です。
40年間で1番勉強しました。
高校の時の同級生から、「お前は本気になるのが20年遅かった。20年前に(高校は一応進学校だったので)それくらい勉強してたら東大に行けたはず」と言われるくらい勉強しましたよ。
まぁ、やる気にならないとしませんからね。
独立して精神的に1番嬉しかったのは、「深夜にケータイが鳴らない」ことです。
24時間営業年中無休でしたから。
当然ながら、深夜に取締役営業部長に電話するのは勇気が要ります。
例えばクレームで、お店で対応できずに店長に連絡がいって対応する。
それでも対応できず、エリアマネジャーが対応する。
で、それでも対応できないから、仕方なく深夜に私に電話する。
つまり、深夜にケータイが鳴った時点で「大変なトラブル決定!」なわけです。
この電話が鳴らないのは、精神が安らかになりました。
これまでの反動で、毎月のように旅行にも行きました。
仕事もせず無収入で毎月の生活費+旅行代なので、結構贅沢に散財しました。
家で料理を作ったりもしました。
朝からまるで旅館の朝食のような準備をして、家族から「お父さんが作ると量が多すぎてこんなに食べれない!」と言われ。
また、この時に決めたことがありました。
「退職の挨拶状とかは一切出さずに、これまでの人脈やつながりは全て一旦リセットする」ということです。
前に書いたように、私の前の歴代の営業部長もそうですが一般的にはこれまでのつながりや取引先を伝って、そこにコンサルで入り込んだり紹介してもらったりするのが普通ですが、私はそれが嫌だったので一切しませんでした。
なので今の人脈や体制は、この時リセットしてからの全くのゼロベースから築いたものです。
縁もゆかりもないこの東京で。
正しくは無収入ではなく、多少は稼いでいました。
それは・・・